野村康生さん NY個展 "Dimensionism2.02.0"

NY在住のアーティストであり,高次元知覚プロジェクト “Dimensionista” の盟友である野村康生さんが,NYで初の個展を開催しています!作品作製に関わる費用の一部を集めるためのクラウドファンディングは爆速で目標を達成し,現在 2nd ゴールに向けて疾走中です!リターンでは僕も協力させていただき,野村さんと対談させていただくことになりました!

(個展の様子はこちらから)

https://motion-gallery.net/projects/nomurayasuo-dimensionism2020/updates/32340

ご興味のある方,ぜひご支援のほどお願いいたします!

野村さんはご自身で数学や物理学を学び,さらに数学者や物理学者との対談を多く重ねることで,サイエンスの表層には全く止まらない作品を発表してこられました.その野村さんが今回追及されていることを物理屋の視点から表現するなら,「最も「自然」な座標とは何か?」ということになると思います.僕は初期宇宙やブラックホールの中について研究していますが,そうした極めて高エネルギー状態にある宇宙では,時空すら原子や分子のように離散的なものになっている可能性があります.しかしながら,時空のそうした状態を見たことがある人はもちろんいません.時空は原子のような細かな粒子の集合体というイメージで良いのか,それとももっとぼんやり広がったつかみどころのないものなのでしょうか.ひょっとすると立方体や正四面体,または高次元の多胞体のようなものだったりはしないのでしょうか?これらは全て「時空をどう表現するのが最も「自然」なのか?」という問題に関係しています.絵画と物理学,アートとサイエンス,表現方法は異なりますが,野村さんとは同じ志を持っていると感じる場面が何度もありました.「共闘」する仲間として,個展の成功と,またたくさんの刺激をいただけることを願っています!!!

僕なりの理解ですが,野村さんの試みについて,物理学の面から少し文章を書きました.ご高覧いただければ幸いです!!

「野村さんの挑戦によせて 〜デカルトの超克と相対性理論のココロ〜」

 物体の運動にしろ,宇宙の広がりにしろ,物理現象を定量的に評価するには座標の導入は欠かせません.一方で自然には初めから座標が備わっているわけではなく,座標という名の視点を導入するのは我々の都合によるものです.天動説と地動説の違いは地球中心の座標系か太陽中心の座標系かの違いでしかなく,その間の変数変換さえわかっていればどちらを採用しても構いません.それぞれの座標には目的に応じてどちらの方が便利かという基準しかなく,絶対的な優劣はありません.

 座標に頼らずに自然を記述できるならよいのですが,いかに私たちが自然の一部であるにせよ,この自然の全てを私たちが受け止め,それに同化することで直接的に理解することはできません.できるのは,一部を切り取り,さらにそれをどこかへ射影して,理解の枠組みに収めることだけです.そのように,私たちに見ることができるものは自然のごく一部であるにしても,それを記述する方法くらいは座標に頼らない手段でできないものでしょうか.

 確かに,座標を全く持ち込むことなしに物理量を定量化することはできません.それはそうなのですが,実は「座標に依存しない物理」,すなわち「どんな座標を使っても同じように物理法則が記述されるような定式化」は可能です.この発想を突き詰めた物理学の「技法」を解析力学といいます.

 Aから出た光が鏡で反射しBへ到達するとき,反射面では「入射角 = 反射角」が成り立ちます.これを「反射の法則」と言います.なぜそのように反射するのかは,反射面で起きている出来事を詳しく調べることで理解できます.そのように,なんらかの現象が起きる原因を空間(または時空)の各点で起きている微視的な現象から理解する観点を「局所的な視点」と呼ぶことにしましょう.通常私たちが学校の物理で学ぶのはこうした局所的な視点です.

 実は,そうした自然現象を理解する視点にはもう一つ「大局的な視点」も存在します.それは,「Aから出て鏡で反射しBへ到達する経路は,途中鏡で1回反射するという条件の下でAからBへ到達する経路のうち,最短距離になっている」というものです.すなわち,「自然は「近道」を選ぶ」という捉え方です.

物体が落下する原因は「重力が働くから」と言えますし,重力をポテンシャルエネルギーの勾配と見れば,「自然はポテンシャルエネルギーが低い状態を好むから」と説明しても,全く同様の結論が得られます.時に現象には二つ以上の等価な説明が存在することもあるのです.「反射の法則」という一つの現象についてもまた同様で,局所的・大局的という二つの視点が存在し,それらは同じ結果を与えるのです.

 しかも,局所的・大局的という視点の切り替えが可能なのは「反射の法則」だけではありません.実はほとんどの古典論についてはこれが可能です.古典論とは,物理学の理論を「量子論」と「それ以外」に分けたときの「それ以外」の方を指します.例えば相対性理論は量子力学とほとんど同じ時期に誕生しましたが,「古典論」に分類されます.

 反射と同じ光の進み方でも,「屈折の法則」も局所的な視点と大局的な視点の二つで理解することができます.局所的には「異なる媒質中での光の速さの変化」として,大局的には「2点A, Bを結ぶ様々な経路の中で,実際に実現する経路は最短時間で結ぶ経路である」として理解できます.複数の電気抵抗を流れる電流の大きさの比については「オームの法則」という局所的な理解と,「回路全体の発熱量が最小なるように選ばれる」という「最小発熱の原理」という大局的な理解が並立しています.そして物体の運動は運動方程式に従うという局所的な説明と,「作用という量を最小にするような経路が実現する」という大局的な説明がほとんどの古典論には成り立つのです.「ほとんど」とは,例えば散逸系のように作用の定義がそもそも難しい系もたくさんあること,また古典論に限っているのは,量子の世界では「作用を最小にする経路が実現する確率が最も高い」に置き換わるためです.

 投げられたボールが描く放物線にしろ,ブラッックホールの周りを回る光の軌道にしろ,様々な経路が現れる可能性がある中で,実際に出現する経路は「作用を最小にするもの」という,ある意味で最も「理想的な」経路です.いくつかの可能性の中から,なんらかの特別な意味を持つ経路が選ばれているという見方が大局的な視点です.

 大局的な視点は物理的というより,いくぶん図形的,または幾何学的な記述だとも言えます.現実の経路はある意味で「最も単純な図形」であると言っているからです.ゴツゴツした角を持つ石より,滑らかな球の方が「なんとなく」綺麗に見えるのと同じで,こうしたある種の単純さは,座標に依らない直感的な理解を可能にします.もちろんその証明には座標の導入が必要になるものの,「最も単純」「最も綺麗」という視点は,「座標を入れる前の剥き出しの自然」を捉えようとするものです.この視点を推し進め,「任意の座標系で成り立つ物理」によって時空の本質を浮き彫りにしたのが相対性理論であり,正準変換と呼ばれる,座標と運動量を混ぜたさらに広い変換の下での対称性を明示的に使って定式化されたものが量子力学です.「物理とは何を以て何を見るかである」という物理の本質を具現化したのが20世紀以降の物理学だとも言えるかもしれません.

 野村さんは,「私たちは見たいものを見ている」ということを非常に自覚的に表現されている方だと感じています.私たちに理解することができるのは「見たい宇宙」ですらありません.「自分が見たい宇宙だと思っている宇宙」です.それだけに,何かを見ようとすれば「自分は何を見たいと思っていたのか」が常に突きつけられます.そのくびきの存在を強く自覚しているからこそ,野村さんは「デカルトの超克」を目指しました.


 よく相対性理論は「最も美しい物理理論」と言われますが,相対性理論が本当に美しく,それを感じる力が私たちにあるのか,それとも私たちが美しいと感じる形で理論を定式化しただけなのか,または私たちも自然の一部である以上,流れに身を任せれば相対性理論のようなものに行き着くのかはわかりません.しかし不思議なことに,私たちは相対性理論ですら「まだ完全ではないのだろう」と直感しています.

 今回 “Dimensionism 2.0 2.0” で野村さんは高次元を体感する領域へと踏み出しました.2次元面に閉じ込められた人にいくら3次元物体を見せようとしても,その断面の変化しか見せてあげることはできません.3次元目の方向へと連れ出すことで,初めてその世界を体感することは可能になります.今回野村さんが張った「そっち方向へ伸びた座標軸」が,私たちに見せてくれる世界はどんなものでしょう.もちろん,この試みはまだ最初の一歩です.しかし,私たちに大局的な視点があるのなら,おそらく野村さんが踏み出したこの道が「最小作用に従う美しい道」であることも見えるのでしょう.そして,ちょうど初期宇宙の量子の揺らぎが星や銀河の構造を作ったように,今回の挑戦から派生する様々な揺らぎやノイズが,新たな絵を描き出すのだと思います.

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