わかった気にさせることと,わからせること

先週の金曜日に群馬高専で開催した群嶺テクノセミナー『ブラックホールの中には何があるのか〜超弦理論が描くブラックホールの姿〜』は,大盛況のうちに終了した。群嶺テクノセミナーは,群馬高専の一般教科(人文科学・自然科学の2科)と専門学科(機械工学科・電子メディア工学科・電子情報工学科・物質工学科・環境都市工学科の5科)の7科が毎月順番に担当する一般向けの講演で,今回は121回目に当たっていた。
ありがたいことに250名近い方がお越し下さったのだが,これはこれまで120回行われてきたセミナーの聴講者数の最高記録を遥かに上回るものであった。今回は普段使っている教室ではなく,最初から学校で一番大きな講義室が会場として用意されていたのだが,そこがスカスカで寂しい結末になるどころか,満席で立ち見が出るほどであった。
僕がこのセミナーで話をするのは二度目である。最初は6年前,群馬高専に着任したときだった。そのときも会場となった教室いっぱいに聴講者の方が来て下さったのを覚えているが,そのときは教室が小さかったので50人ほどだったと思う。今回の250名はその約5倍だから,さすがに自分でも驚いた。たくさんの方がリツイートで宣伝して下さったり,研究室の学生が他の学生に宣伝してくれたり,デザイン系の大学に編入する学生がポスターを作ってくれたりしたおかげだと思う。ありがたいことである。そしてここで6年間やってきて,これだけの皆さんが講演があることを知って,僕の話を聴いてみようと集まって下さるようになったのだと思うと感無量だった。ちょっと押されたら泣いてしまったかもしれない。
講演自体も皆さんが熱心に最後まで聴いて下さったおかげで,ものすごく盛り上がった。僕自身も観客の皆さんに乗せられる感じで,とても気分が高揚した。本当は物理や数学の知識を全く前提としないくらい,初心者向けの話のみをするつもりでいたのだが,学生が多かったこともあり,数式も使ったりしながら結構難しい話も喋った。それでも僕が前から見ていた限り誰も寝ることもなく(笑),最後まで食い入るように聴いていて下さった。授業をしていてもすごくうまくいったときに,まるで祭りのような学生との一体感を感じることがあるが,今回はまさにそうだった。特別な場所やBGMなどの工夫をせず,ただ何もない普通の講義室でこれが出来ることはあまりない。いや,もっと言うと,科学のイベントでああ言ったグルーヴ感が生じることなど普通はないのではないだろうか。実に貴重な体験をさせてもらったと思う。
僕はいろんなところで講演をやらせて頂いているが,最近特に「わかった気にさせる」のか,「わからせる」のか,について考えさせられることが多い。僕は(気持ちまでそうかどうかは別として)教員が本職だからか,ついついどんな講演のときも授業風になるというか,せっかくならわかって欲しいと思ってしまう。僕の講演を通じて,何らかのことを本当に理解して欲しいと思うのだ。つまり,啓蒙書を読んだり科学エッセイのようなものを読んだりすること以上の何かを提供できるようにしたい。本を読むより人に話を聞く方がよくわかるのは当たり前だが,もちろんここで言っているのはそういう意味ではなく,専門外の話を聞いたときに感じる「何となくこんな感じかなと思ったけど,まあ合ってないんだろうな」という感覚ではなくて,「あ,そういうことだったんだ!」と本当にわかって頂きたいのだ。極端なことを言えば,僕の講演を聴いたら何かしらひとつ「計算」できるようになった,というのが理想なのである。つまり,啓蒙書・入門書的な講演でなく,教科書的な講演,それでいて聴いている人がある種の興奮を覚えるようなものを目指しているということだ。
「わかる」と言っても,じゃあどのレベルに達したらわかったと言えるのかとか,わかることがコンパクトにまとめることだとするならば,どこまで枝葉末節を削ぎ落したものを「コンパクト」と呼ぶのかとか,物理がよく批判されるように,そうした第0近似的な要素を抽出したら本質なのかとか,いろいろ問題はある。他にも,使えるほどにわかっているのかとか,応用できるほどにわかっているのかとか,改良できるほどにわかっているのかとか,「わかる」には様々な段階がある。その意味では人の話を聞いただけではほとんど全てが「わかった気になる」だけのことなのだろう。事実普段の授業でも,先生の話を聞いていたときは何も疑問に感じなかったけれど,家に帰って宿題をやってみたら全然解けなくて,わかっていなかったことがわかったという話をよく聞く。自分にもそうした経験が山ほどある。
となると僕の目指しているもの,理想は具体的にどのレベルの話なのか。それは,僕の話を聞いて「面白い」と思ってくれた人が,計算でもいいし,他の本を読むでもいいし,何かしら自分なりの新しい行動を取ってくれるようになることである。なぜならそうやって能動的に動いたとき初めて,「わかる」という段階に入るからである。僕はそういったことの動機づけになるような講演をしたいと思っている。小学生を対象とする講演であっても,必ず具体的な計算をひとつ以上は入れることにしているのだが,それは後で自分で何かをしてもらうための参考例を見せておきたいからである。
僕は学生から「先生と話すとやる気が出る」と言われることがよくある。同僚の先生達からも「どうやったら学生のやる気を引き出せるのですか」ときかれることがある。僕と話すことを「やる気の無料配布」と呼んでいる学生までいるそうだ。しかし,当の僕はそんなコツを知らないし,やる気が出たとしてもそれを僕からもらったと考えるのは勘違いだと思う。そもそもやる気は誰かからもらえるとか,そういうたぐいのものではない。その人の中にそもそもあるものに,たまたま僕との会話が触媒として作用して,反応が進んだだけのことである。だから僕と話したところで,最初から何も持ち合わせていない人には何の変化も生じない。実際どれだけ言葉を尽くしても,全く何にもならずに自分の無力を痛感した経験もたくさんある。
しかし,僕はやる気こそ配っているとは思わないが,知識は配っている。それを相手が理解出来るかどうかは関係がない。というか,そこはお笑いと一緒で,それを提示するまでの持って行き方が重要なのだ。肝心のモノを見せる前に勝負はついている。教育とは種を蒔くことであると常々感じているが,その種が根付くには「自分には理解出来ないこの内容に,どうやら何かすごいものが隠れていそうだ」と思わせなければならない。それが出来るかどうかは相手との信頼関係にかかっている。
そして出来る限り本物を見せてあげることも大事である。しかしながら,教員なら誰しも経験があると思うが,「便宜上,今の段階ではこう教えておくしかない」と妥協せざるを得ず,もやもやした気持ちが残ることがある。どんな分野でも最先端はいつでも「行き詰まっている」のだから(だから最先端なのだ)本当に理解されていることなど世の中にはないのだが,少なくとも現時点での最高の説明の仕方というものは当然ある。しかしながら諸処の事情で,学校で教える際にはその最高の説明をそのまま使えないことがほとんどである。「ああ,本当はこうじゃないんだよなあ」とか「俺がもっと深く理解していれば別の説明が出来るのになあ」と,しょっちゅう感じている。
こうして考えてくると,高々1〜2時間の講演で「わからせる」なんてことは非常に傲慢で大それたことで,ものすごく難しいことだということが改めてよくわかる。しかし僕はどうにも諦めが悪いらしく,「まあ,どうせ無理なんだから」と終わらせることができない。ただ,その無駄な足掻きを続けているこの姿勢が,ひょっとしたら多くの方に耳を傾けて頂けるようになった理由のひとつかもしれないとも思うのである。

Kobayashi Shinpei / 小林晋平 Website

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