本気でやろうとするならば

このところ,「よい例題」とはなんだろうかということをよく考える。
教員をしていると,できる生徒というのは先生がどんな授業をしようが関係なくできるのだなと思わされることがある。何となくでも目標をすでに持っていて,勝手に勉強や経験を積んでいくからである。もちろん,知識そのものは授業や学校で伝えるべきことのほんの一部に過ぎないので,学校に意味がないというわけではない。出会いは何より大事だが,読み書きそろばん的な学校の存在意義においては,という意味である。
別の意味で,自分の教育が全く役に立たないと思い知らされた経験も少なくない。何を喋っても自分の言葉が生徒に届かないという感覚,あれは辛いものだ。だからといって諦めるということはないし,違う手を考え,努力を続けているのだが,自分という人間の身の程をわきまえるということも大事なのだと思う。教員は独裁者ではないのだから,少なくとも自分が学生の心を「変革」できるなどと思うのは完全に間違っているし,そもそも一教員の独断と偏見に満ちた変革など誰も欲しくない。人それぞれいろんな思いや背景があるのだから,たとえ小学校1年生の子であってもその点については全く大人と同様に扱われ,最大の敬意を払われなければなければならない(例えば人を叩いてはいけないとか,そういったことはもちろんしっかり教えなければならない。その点においては子供は精神年齢もやはり子供だからだ)。僕には一卵性の双子の息子がいるのだが,一卵性だから遺伝子は全く同じなのに,全然違う。顔はさすがに似てはいるが,性格は全然違う。しかも生まれた時から違うのだ。育て方が入り込む余地がない。
上の娘が生まれた時も感じたのだが,人は生まれながらにして持っている性格の部分も多々あって,後天的に親がしてあげられることは意外と少ない。社会にはどんなルールがあってそれを守らないとこんな危険があるだとか,世の中にはいろいろ面白いことがあっていろんな人物がいるとか,お父さんは若いころこんな失敗をしたり,こうやったらうまくいったり…とかを伝えてあげられるくらいしかないのだ。親が子供の根本の部分をコントロールできると思うのは親の傲慢以外の何物でもないと痛感したものだ。自分の子供ですらそうなのだから,赤の他人,ましてだいぶ歳を重ねた人の性格をどうこうするなんてのは以てのほか。完全に時間の無駄である。
少し話は脇道に逸れるが,子供が親に感謝することを願う親はどのくらいいるのだろう。本当にそんなことを願っていたらよほどのバカ親だと思う。「自分がこの子を育ててきたのだ」と思うのは傲慢である。子供のために金を稼ぎ,休みの日も頑張って付き合ってきた?そうやって言い聞かせないと働けないのは幼稚だからだ。仕事にしっかりとした意味を見出せないのならもう一度しっかり学び直すべきだろう。子供は勝手に育っていくのだ。残念ながら。こっちがどれだけ手をかけても,もちろん僕も本気で手をかけて育てているが,こっちの努力もむなしく「勝手に」育っていくのである。それでいい。それでいいのだ。親は子育てを通じて,ものすごく濃く,深く,子供の人生に関わることができた,それだけを感謝するしかできないのだ。1/2成人式という,10歳で親に感謝する儀式が最近あるそうだが,馬鹿げた話である。子供によっては父母が他界している場合もあるとか,いろんな観点から配慮に欠ける儀式だと議論されているが,そもそも子供がその年齢で親に感謝すること自体,僕は必要ないと思う。確かに20歳,30歳と年齢をいくら重ねても自分のことだけでいっぱいいっぱいになっているようではちょっと困る。自分の仕事だけでなく,若い世代,困っている連中に手を貸してあげられるくらいの仕事上の力量や,何より器が欲しい。歳を重ねてどんどんその器が大きくなってくれば自然とその中にや自分の親も入ってくるだろう。自分の出自を見つめ直す期間はいつか必ずやってくるからだ。それに自分の原点に自覚的な人ほどいい仕事もできる。親に感謝するのはそれからでいい。子供に前世の記憶があって,生まれてくる前に自分で選んで親のところに生まれてきたというスピリチュアル系の話も時々耳にする。これも親の傲慢である。自分が選ばれた?そうでも思わないとやっていられないということの裏返しではないか。縁や運命を感じないと不安で先に進めない人間の性もあるだろう。はっきり言う。どの親も,選ばれた存在などではない。誰しも普通の人間に過ぎない。たまたま自分の子供とは深く付き合う縁を得ただけだ。偶然だ。しかし偶然だからこそ大事なのだ。
話を戻そう。僕が言いたかったのは,教育においては集団のうち2割程度はあまり教育が役に立たないものだろうという感覚である。おそらく他のことでもそうなのだろうが,必ず「例外」は出てしまう。量子の世界の揺らぎを持ち出すまでもなく,自然現象だって常に何らかの揺らぎを持っていて,揺らいでいないシステムなどどこにもない。人間社会も同様である。いや,人間社会の方が揺らぎまくりだろうか。
どうしても例外は目立つ。しかも悪い方が目立つ。例えばある学校で一つ不祥事が起きると「あの学校の生徒は…」とか「あの学校の教師は…」となりやすい。国だってそうだ。「やっぱりあの国の人って…」なんてことはしょっちゅうだが,誰しもその国の人全員が善人だとも悪人だとも思ってなどいない。しかも「ずっと悪人」や「ずっと善人」もいない。悪人になる瞬間もあれば,善人になる瞬間もある。それも揺らぐ。例外が目立つだけだということはわかっているのだが,ついついそこばかり見てしまうのだ。
おきざりにされるのはいつも真ん中の8割である。そして忘れてはいけないのは,この部分には教育も効力を持つということなのだ。つまり,教育次第でどっちにも振れる可能性がある。にもかかわらず,ついついここは置いてけぼりになる。「大多数の普通」が何だか損をしてしまうのだ。目立たない,というだけの理由で。改めて言うまでもないかもしれないが,ここでの8割とは成績の話に限ったものではない。どんな集団,どんな組織でもその枠組みに収まりにくい2割というのはあって,それを差し引いたものということである。だから自分一人についても当てはまる。妙にテンションが高い日もあれば低い日もある。そうした日のことは覚えているものだが,覚えていない日常,普通の何もない日が実は人生の大半なのだ。であれば,そうした忘れがちな日常ほど大切にしなくてはならないだろう。
歴史に名を残すような人物には,若い頃に波乱万丈の人生を送ったというエピソードが付いてくることがよくある。歴史や伝説は遡って作られるものだし,人間は「なぜ自分にはできなくてその人にはできたのか」という言い訳を欲するものだから,「やっぱりあの人は生まれからして自分とは違っていたんだ」と思い込める安心材料は好まれる。だから真偽のほどは怪しいが,多少の違いはあってもエピソードの元ネタになるくらいの何かはあったのだろう。
しかし,若い頃に壮絶な体験をしていれば何かを成し遂げられるというものでもないだろう。ただひねくれて世間を恨んでしまうだけの人もたくさんいる。壮絶ということは滅多にないにしても,僕らは皆毎日何かしら「抵抗力」や「摩擦力」のようなものを感じて生きているのだから,そこから毎日何かを学びとってもよさそうなものだが,自分のことを考えても周囲のせいばかりにして自分を成長させていないことの方が圧倒的に多い。壮絶というほどのことがあれば話も違ってくるのかもしれないが(自分に過剰な期待はしない方がいいのだろうなあ)。
釈迦・老子・イエスといったずっと昔の聖者・聖賢から始まって,本当に様々な偉人が歴史上に存在してきたが,僕は,結局「うまくはいかなかった」のだと思う。それは,そうした人たちには劇的な回心のきっかけになるようなもの,一心不乱に打ち込めるようになる契機があったから,もしくはあったということになっているからではないだろうか。
僕は,本当によいものというのは続くし,皆が「あれなら自分もやってみたいな」と思えるものではないかと考えている。仮に人生について深遠な境地に達することができたとしても,そのきっかけが愛する人の死だったりしたら,皆が真似したいと思うだろうか。本当に辛くて救われたいという思いがあって求道に入っていくことが多いが,そうした人のための救済や癒しはあっても,普通の人の人生にとっては正直どうでもいい話にしかならない。「意識高い系」と茶化されることも多いが,「わかっている人」「限られた能力を持っている人」という上の1割,もしくは大失敗のような下の1割の経験にとっては役立つことでも,真ん中のありふれた8割には無関係な話になってしまうのだ。結局それでは続かないわけである。
続くものにしようと思えば,「普通の8割」をどうするか,もっと丁寧に扱う必要があると思う。物事を変革しようと本気で取り組むというと,一時的な強烈な熱気を想像しがちだが,それでは壊すだけで先がない。いや,壊すことすらできないかもしれない。ほとんどの人間が真似しようと思わないからである。単純な「維新」では駄目なのだ。大切なのは「人間は皆そもそも弱く,自分があえて矢面に立とうとは思わない」という性質を持つことを踏まえ,弱い自分でも一緒に取り組みたいと思えるような,普通の8割でも動ける「よい例題」を見つけることなのだと思う。

Kobayashi Shinpei / 小林晋平 Website

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