履歴を必要としない感動

いよいよ今日で今年度の全講義が終了する。昨日までで大学内容の講義は全て終了し,残すは本科2年生対象の高校物理である。「効果的な教授法」というテーマで工学教育について論文を書いて欲しいとの依頼が来たのもあって,どんな授業をしたら学生は面白いと思い,しかも身にもつくかについて考えている。
「全ての芸術は音楽に嫉妬する」という。なるほどである。確かに同じ芸術でも,例えば絵画に感動するときと,音楽に感動するときとでは様子が異なる。もちろんどちらも,生きてきてそれなりに経験を積んでくれば,表現されている世界に共感して涙がこぼれたりする。だがそれとは違い,音楽の場合はそういった経験を積まなくても時として気分が異常に高揚したりすることがある。背景を知る必要がないという意味で,「履歴を必要としない感動」とでも言えばいいだろうか。これは音によって文字通り「体が震えている」ことと無関係ではないだろう。演劇などもそうだろうが,音を媒体とすると体に直接訴えかけることができる。名演説などもそうだ。そしてこれらはとても繊細な感動で,同じ演奏を聴いても,その日の体調や精神状態(これは身体の状態と完全に直結している),果てはその日の朝食のメニューや着ている服,座っているイスの固さに至るまで,ありとあらゆる環境に左右される。
音でなくても,スポーツのように体を動かしているときは似たようなところがある。ただし感動するには対象に自分を合わせていくというチューニングが必要になる。団体競技でのチームメイトとの一体感や,会場の応援との一体感から得られる高揚などはその例だ。ただ自分勝手に動いた場合でも,もちろん「主観的自分と客観的自分との一体感」はあるかもしれないが(簡単に言えば「俺,今日めちゃめちゃ調子いいな」というような感覚だ),武道・武術のように死と隣り合わせの極限状態を(本来は)想定するようなものと違って,自分の一生を変えてしまう程の感動が残ることはあまりないだろう。まとめると,「身体として感得する」「対象に共感する」という二つの要素が感動には必要だと思われる。
では科学はどうだろうか。科学が描き出す世界に感動することももちろんあるが,どうしてもそれには「理解する」という大きな壁がある。この,理解にこそ「身体として感得する」部分が必要になる。方法は大きく分けて二つだ。
一つ目は,自分が例えば電子や陽子なんかになって飛んでみたりする方法だ。電子になって電場や磁場のかかった空間を飛んでみる。光になってブラックホールによってねじ曲げられた空間を飛んでみる。そのとき大事なことは,自分の経験と安直に結びつけないことである。つまり,「正確に」電子なり光なりのプロフィールを体現してあげないといけない。早い話が,自分の勝手な解釈で実験結果と合わないような間違った類推をしてはいけないということだ。似て非なるもの,つまり「似非(えせ)」になってはいけない。
そのため,量子論の世界や相対論の世界のような日常とはずいぶん違うことがしょっちゅう起きる世界についてきちんと理解するのはとても難しい。今まで人生で経験してきたことに当てはめて理解しにくいからだ。動いている物体の寿命は伸びるとか,ミクロの世界では壁をすり抜けるとかそういう話に似た経験など誰もしたことがない。そのためこの場合は,逆に経験したことがないから「何だかとんでもない世界があるぞ」と驚くか,量子論なり相対論なりを学び続けてその世界の法則に慣れるしかない。慣れてくれば,ニュートン力学の世界観を僕らが納得しやすいのと同様に,ちょっと苦しいが,まあ何とか身体的に量子論や相対論の世界も納得できるようになる。ちなみに,残念ながら僕にとっての抽象数学はこの「慣れる」という域を出たことがない。いや,慣れるどころか「郷に入っては郷に従え」レベルなのだ。せめて自然に抵抗なく「その国のルールに沿って体を動かせる」くらいにはなりたいのだが,「この国ではそれが決まりのようだから仕方なく従うか」という諦観で止まってしまっている。単純に勉強量が足りないだけであることを祈っているのだが…。
閑話休題。二つ目の方法は,科学者になったつもりで考えることだ。理論そのものに感動するのではなく,その理論を発見した人間になったつもりで,その科学者が味わったであろう感動を追体験しようというわけだ。これは正確には身体感覚としての感動とは違う。どちらかというと,芸術作品の背後にある人生などに感動するときの感動に近い。これは「履歴を必要とする感動」である。物理の授業では,原子物理の単元はこの方法を取り易い。特に高校・大学教養レベルの原子物理では,量子力学をやるというより,量子力学の歴史(つまり19世紀末から20世紀初頭にかけての物理学の歴史)を講義することになるので,それに関わった学者の人間模様や,新しい理論が誕生するときの産みの苦しみなんかを取り上げ易いわけだ。
一方,このやり方で例えばニュートン力学を講義するのは難しい。何しろニュートン力学で出てくる現象と言えば,ボールを投げるだの,おもりをひもにつけて回すだの,身近過ぎて,何だってそんなありふれた現象をいちいちニュートンガリレイが研究する気になったのかがわからないからだ。特に高校までで学ぶのは19世紀までに完成していた内容であることが多いから,どうしても現代的な観点から見ると「取るに足らない,つまらないこと」や「一見すると当たり前に思えること」なので,「何でこんなどうでもいいようなことを勉強しなきゃいけないんだろう」となってしまうわけだ。身体的に感得は出来るが,共感はできないことになる。
さてこうやって考えてくると,科学で「履歴を必要としない感動」はあり得るのだろうかという疑問が浮かぶ。そもそも感動が必要かどうかという問題もあるのだが,少なくとも僕は感動したい。僕は相対論を使って仕事をしているが,実を言うと相対論で感動したことはない。昔から相対論はかっこいいなあとは思っていて,今もそれは変わっていないのだが,憧れが強過ぎたのか,しみじみと「ああ,相対論を使って研究をしているのだなあ」と思うことはあっても,「すごい!」といった感動を覚えたことはないのだ。僕が感動を覚えたのは,解析力学でネーターの定理を学んだときである。様々な保存則が,系の対称性からきていることを知ったときは心が震えた。誤解を恐れずに言い切れば,ネーターの定理が教えてくれるのは「キレイな世界には美しい物理法則があるのです」ということだ。これは当たり前というか,世の中はこうであって欲しいなあという願望をまさに叶えるものであったから,強く感動したのだと思う。ただこの感動は,間違いなくそれまでにエネルギー保存則や運動量保存則といった物理法則をさんざん計算で使って来たからこその感動だったと思う。それらの保存則を教わった直後にネーターの定理を出されても「ふーん。そんなもんか。」としか思えないだろう。だからこれも履歴を必要とする感動である。
一年程前にある物理学者の方と話していたら,その方が「蓄積ではない,瞬間の科学とでも呼べるものがあるのではないか」と言っていた。それが僕を感動させてくれる(そしてそれを講義すれば学生も感動してくれる)ものかどうかはともかくとして,少なくともその方向に僕の求めるものがありそうな予感がある。それに近づく道筋は今のところ見当もつかないが,一生をかけて追い求める価値がある,その確信だけはある。

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Kobayashi Shinpei / 小林晋平 Website

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