自分の頭で考えろと言われても

「自分の頭で考えていない」とはよく言われることですが,自分の頭で何をどう考えたらいいのか,困ってしまいますよね。

しかも,よく考えてみると大抵の場合は自分の頭で考えていないわけでもなくて,誰しもそれなりに与えられた要求に応えられるように頑張っています。「ただ流されているだけだ」と批判する人もいるかもしれませんが,置かれた立場で,可能な範囲で,最適なやり方を探す努力もしています。前提を認めた上でなら,十分考えている場合も多いし,枠の中でうまくやろうと皆苦労もしているわけです。

確かに,大前提を疑ったり,枠を壊す必要性を考えたりまではしていないかもしれません。誰かが考えた枠組みやシステムの中で考えている,そのことを「自分の頭で考えていない」と表現されてしまうわけですが,そうは言っても,大前提を疑ったり,枠を壊したりするのは簡単ではありません。そもそも論は嫌がられますし,「良い前提」や「現状ではうまくいっている枠組み」というのも確かにあるわけで,何でもかんでも総取っ替えしたらよいという単純なものでもありません。


ただ,当たり前に置いていた前提が,実はローカルなルールに過ぎないかもしれないと気づいてしまうと,それに従ってばかりいるのは苦しくなります。

地元を離れ,別の土地で暮らしてみると,好きか嫌いかは別にして「こういうスタイルもあったのか」と思うものです。生まれ育った国を出て,別の国に行ったりすればなおさらです。仕事にしても,それぞれの職種ごとに「当たり前」があって,その違いに戸惑うことはよくあるものです。どの「当たり前」も実はローカルルールに過ぎませんし,しかも,ローカルにすらベストとは限らないものも多々あります。

怖いのは,ローカルにどっぷりはまってしまうと,最初に感じる違和感に慣れてしまうことです。サルヴァトーレ・フェラガモは「靴に履き慣れることはない。靴の方が足を慣らしてしまう。」と言ったそうです。そうした適応力があるからこそ,私たち生物は生き残ることができたのですが,次第に違和感を忘れ,挙句「ここはここで居心地がよい」とか「もう冒険できる年齢でも立場でもない」と言い訳すらするようになります。「必要がない」と自分に言い聞かせているうちに,本当にそんな気がしてくることもあります。

全てのことについて,いちいち前提を疑っていたら,何も先に進むことはできません。しかし,自分にとってどうしても譲れない大切なこともあるはずです。

僕は,片っ端から前提を疑っていくような仕事をしています。空間は3次元なのかとか,空間は連続なのかとか,時間は存在しているのかとか…。僕らの身体感覚を凌駕することばかりで,いつまで経っても,慣れることがありません笑。こうした揺さぶられる「浮世離れした体験」と,地に足のついた生活と,行ったり来たりを自由にできることが大切なのでしょうね。

Kobayashi Shinpei / 小林晋平 Website

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